ふと思い出した音楽シーン Vol.7

 よし、限りある時間の中で後一箇所といったらやっぱり「​​Strawberry fields」ということで気持ちを保ちつつ到着! 
 
 やったー! 開いてる! ここのために来たんだー! 
などと叫びながらカセットで曲をかけながら散策の後、入り口の門前で記念撮影。めちゃ嬉しい!
 友人と撮りっこ。
 「​​Strawberry fields forever ♪」

 やっぱりリバプールだよなーと意気揚々ロンドンまで帰って来たのでした。

 帰国後、フィルムを現像してみると、当該写真には​​Strawberry fieldsの門の文字は知っているからかなんとか読めたものの、その横にはムンクの叫びのような顔もはっきりとしない人らしきものがボヤッと写っており、いったいどこにピント合わせたんや〜! と膝から崩れ落ちたのでした。
 オートフォーカスは偉大だ! 
 (「ふと思い出した音楽シーン」イギリス編) 「THE END」

鈴木啓之(アーカイヴァー)さんインタビュー!

3月21日春分の日に「おんがくばかch」(YouTube)にインタビューアップしました。アーカイヴァーの鈴木啓之(すずき ひろゆき)さんです。アーカイヴァー、なかなか聞きなれない言葉ですが、コレクターの最上級とでもいいましょうか、ともかくモノを集めていらっしゃいます。資料も集めていらっしゃいます。しかも、昭和のレコードを中心に芸能関係に偏っています(笑 
 ラジオやテレビや雑誌で古き良き時代の日本の芸能について語っています。
 そんな鈴木さんがいかにしてコレクターの最上級「アーカイヴァー」になったのか、その先にあるものは、などお聞きしています。
 まずはその前編をお聞きください。

ふと思い出した音楽シーン Vol.6

 失意のマクドナルド事件から数十分後、イギリスに来たらなにはなくともビートルズ! と意気込んでいたもう一人の友人と二人で「ticket to ride」(ユーレイル・ユースパス)片手に列車に乗り込んだのでした。Let’s go to LIVERPOOL! 
 
 車窓から眺める風景も都会の街からのどかな田園風景へ。緑豊かなイングランドの北西部にあるリバプールまでの確か3時間くらいの間に妄想は膨らみました。
 ポールやジョージが歩いているところに遭遇したらどうしようとか、「今夜一緒に歌おうぜ」と言われたらどうしようと、勝手に盛り上がっていたのでした。

 2月の港町は人気もなく寒々としていました。
 頭の中では「PENNY LANE」「I saw her standing there」がぐるぐる巡っています。

 「まずはビートルズ博物館に行って情報収集しようぜ」
 友人の言葉に地図を必死に見たのですがよくわからず前から歩いてきたリバプールマダムらしき夫人に「はう きゃんないげっと とう・・・」と話しかけるやフランス語らしき言葉で何か返され、スタスタ去られてしまい、トホホ。

 ようやく辿り着いたのはいいものの、やってませんでしたトホホノホ。

ふと思い出した音楽シーン Vol.5

 さて次の日なんとか体調を戻しロンドンの街へ繰り出しました。

 初めてのリアル・クイーンズ・イングリッシュ圏でマクドナルドへ入ると僕は外国人だらけの(ここでは僕が外国人なのだが)周りにビビりながらも「あ かっぷ おぶ みるく ぷりーず」と呟くようにオーダーしたのです。
 まだあまり食欲もなかったのでね。

 するとしばらくしてビッグマックがドカン! と登場したではありませんか。

 「違う違う」と言う勇気もなく無理無理にデカいハンバーガーを詰め込むと、ロンドン駅からリバプールへと向かったのでした。
 しばらくは英会話本を指差し確認にするか・・・と呟きながら。

 あ〜〜〜 青い春の1曲!

ふと思い出した音楽シーン Vol.4

 この20数時間の空の旅で自らカセットテープ・ウオークマンは持っていたものの、機内サービスの洋楽チャンネルを繰り返し繰り返し聴いていました。

 何度も番組はリピートしていたはずですが、何故かピーボ・ブライソンとロバータ・フラックの「​​​​​​Tonight, I Celebrate My love」がコビリツキ、他の曲は何を聴いたのか一切思い出せないのです。

 そしていまだに大好きな曲の1曲として聴いています。

 この曲を聴くと風邪で苦しみながらもあの優しく美人だった(なんとなく顔も思い出せるのです)客室乗務員のおねーさんのことが思い出され、胸がキュッとなるのです。
 
 あー青春の1曲!

ふと思い出した音楽シーン Vol.3

さて成田から一旦アメリカ大陸へ。
旅の中間地点、シベリアのアンカレッジで一休み。
給油や食料積み込みの間一旦機外へ。

そこでいかりや長介さんと遭遇! 
いかりやさんはアフリカ旅行が趣味だったらしくロンドン経由でケニアにでもいく途中だったのかも。

体調はすぐれないまま再び機上の人へ。
10時間以上の飛行を経て飛行機は無事に夜のヒースロー空港へ到着したのでした。

「次行ってみよう!」

ふと思い出した音楽シーン Vol.2

 この初海外フライトのことを旅から帰ってしばらくの間「お前わざと調子悪い風にしてただろ。ずるいぞ」と二人から散々言われました。 
 というのも、JALの綺麗な客室乗務員のおねーさんが頻繁に僕のところに来てくれ様子を聞いてくれたり毛布を追加してくれたり、とてもよくしてくださったのです。今なら不埒な考えも浮かびますが・・・うそ!笑

 その時はマジで調子が悪く純粋に女神のように感じ、まさに夢を見ているようでした。

 当時ヨーロッパへはロシア(当時ソビエト連邦)上空を飛行することはできず、北極経由で20数時間かかっていました。体調悪い中この長時間フライトはマジ辛かったのですよ。マジ! マジ!

ふと思い出した音楽シーン Vol.1

まずは初海外旅行での出来事。

あれは1984年2月のこと。

大学の卒業までに人より時間がかかってしまった僕はでも同じような仲間が結構いて、その中の3人で卒業旅行と称してヨーロッパを2週間旅したのでした。
その年は雪が多く飛び立つ予定の日も大雪で、飛行は全てキャンセル、成田空港で一夜を過ごすこととなりました。
 配られた毛布一枚で。

 んーそれで風邪をひいてしまったようなのですが、次の日めでたくフライトへ。
 
 持って生まれたビビりと高所恐怖症、初めての海外飛行の不安も重なり、熱っぽくグデーっとエコノミーシートに横たわるように座っての旅の始まりでした。

youtubeチャンネル更新!

 お寒うございます。しばらく間が空きましたが、インタビューの再会です。
 今回はk以外進出後押し人、阿部賢悟さんです。日本を紹介するメディアJAPOをベトナム、ミャンマー、カンボジアで展開中!UAろまんもアイドルプロジェクトをベトナムで共に立ち上げるべく準備中!

音楽とビジネス Vo.8

 ネガティブなことを書いてきました。

 でも事実は事実。

 ・・・としながらも、音楽を愛しているのでこれからも音楽が永遠に人々の生活にあり続け(ここはいけそうですが)、音楽を志す人が純粋に音楽で食べていかれる仕組みができないものか、おんがくばかの皆さんと道筋を考えましょうか。

  CDやビデオを売るために特典グッズやサインをつけ、その分単価が上がってしまう、このサイクルから脱出しよう。
  ライブのチケット代金も若い人たちが無理なく行かれるようにもう少し安く・しよう。
 音楽はもっと身近に、でも有料で。

 何かあるはずです。

音楽とビジネス Vol.7

 まだ1曲200円、100円、アルバムは2,000円など、CD販売の名残りがあるダウンロード販売期間はそれでもまあまあでした。
 しかしサブスクが一般的になってくると1曲聴かれてもコンマいくらです! と言われてもねえ。

 個々のアーティストにしても人に自分の曲を聴いてもらえる、知ってもらえる、化けるかも! のチャンスは増えたものの、音楽で自立して行くのはなかなか大変です。
 そしてレコード会社も純粋に音楽を制作して販売するだけではなかなか今までのようにはいきません。
 これらの理由だけではありませんが私のいた東芝EMIは会社がなくなり、ユニバーサル ミュージックの1レーベルとなりましたしねえ。
 その昔下に見てたであろう会社に買収されたり、自社ビルを手放したり、いろいろ大変です。

音楽とビジネス Vol.6

さて、2000年以降ノンパッケージ化が進んでくると、レコード会社は利益を生んできた構造が崩れ収益として苦しくなってきます。
  youtubeや無料サイトなどの影響も当然ありますが。

 この傾向はもちろんプロダクションやアーティストにも影響を及ぼして行くことになりした。
 そのため、音楽を純粋に売るだけではなく、コンサートやグッズでの収益が重要になってきたのです。

 その昔はコンサートは音楽を売るための一番の手段でした。
 なので収支がトントンであれば、もしくは赤字でもその分音楽が補填してくれました。

 今ではチケット代も値上がりしましたしTシャツもお高いですよね。

 

音楽とビジネス Vol.5

そして90年代に突入するとJPOPが歴史上最大の市場となりCDのミリオンが連発。
  レコード会社バブルが生まれます。(1998年が最大のピークと言われていますね)

 その先駆はやっぱりユーミンでした。
 私がまだEMIにいた1990年発売の22枚目のアルバム「天国のドア」は初めて200万枚を出荷しました。
 その記念として社員にナンバー入りのゴールドCDが配布されました。
 
 今まで原盤をレコード会社が握っていたのをプロダクション側が持つようになったのも分かりますよね。
  レコード会社としてはせめて50%死守、外部原盤(レコード会社以外が原盤を持つパターン)が増えていきました。
 出版権もどちらが(誰が)持つか問題も。

 しかも力のあるプロダクションはアルバムの制作からCDの完成品まで自社で作り、レコード会社にただ販売を委託するパターンも出てきました。
 企画制作:〇〇プロダクション 販売:△△レコード会社 みたいな。
 
 本当にクリエイティブに音楽を作りたいならプロダクションに行った方がよい、と実際に移籍する人もいました。

 力のある(売れる)プロダクション相手となると予算管理や社内調整に徹する仕事がほとんどとなり、メーカーのA&Rディレクターという名刺が虚しく感じることもありました。
 もっともそのころは自分がペーペーということもあったでしょうが。

音楽とビジネス Vol.4

レコード会社やプロダクションはどうか。

媒体が変わるごとに同じ曲でもリニューアル販売して利益を得ていました。

実はここで大きいのは第一にレコードやCDの媒体です。
大手レコード会社は自社で媒体を作る工場を持っていました。
いわゆる社内費でもあります。
支払う印税を差し引いても残りの利益はデカイのです。

第二に原盤。
音楽を完成させるのに必要なお金はレコード会社が持つというのが普通でした。
80年代後半アルバムを作る原盤として1,000万円位以上は普通でした。
  (小さいプロダクションや新人アーティストはなかなか支払えない金額ということもありました)

ただ原盤を持つということはリクープした後は各種印税以外は利益ということになり利幅がデカくなります。
(レコード会社はもちろん結果売れなかった音楽にも原盤制作費を支払っていたわけなのでリスクもありました)
 
ポニーキャニオンは「およげ! たいやきくん」ビル。
 東芝EMIは「ルビーの指輪」ビルと呼ばれていたのもそれだけ利益率が良かったからです。

 もちろん売れたら! の話ですが。

音楽とビジネス Vol.3

 大雑把に音楽にまつわる変化を書きました。
 さて、この流れの中で音楽業界、音楽ビジネスはどう変わっていったのでしょうか。

 まずすごく分かりやすい事例から。
 
 1980年前半頃までに世に音楽を送り出してきた作詞・作曲家・実演家と原盤者は同じ曲で何回も印税が発生しています。

 書いてきたように音楽を聴く媒体はいくつか変化してきました。
 その媒体が変わる度に同じ曲がレコード化、カセット化、CD化され印税が発生します。
 もちろんレコード会社にも。

 人気の曲は何もしなくてもその度にリニューアルされ、新しいメディアで生き続けます。
 そしてデジタル化でまた売れる。

 とてもハッピーなパターンです。
 一粒で何度美味しい? 
 

音楽とビジネス Vol.2

 もちろん音楽を作る側にも大きな変化がありました。
 やはりデジタル化です。
 
 その昔はアレンジャーの作ってきたプリプロに沿ってミュージシャンが各トラックに本物の音を演奏してくれました。
 いわゆる差し替え。
 MIXの際にはNEVEの48chコンソール卓をエンジニアが髪の毛一本幅レベルでフェーダーの上げ下げをしてくレました。
 部分録り直しは、パンチイン、アウトの早技をアシスタント君が披露してくれたものです。
 仕上げも含めJBLスピーカーでチェックしました。(小さいスピーカーでもチェックしましたが)

 1曲おおよそ200万円。
 アルバム1枚2,000万円くらいが相場でした。

 今は音楽の作り方やこだわりにもよりますが、ご存知のように自分1人でオケを作り、歌入れをして1曲完成させることも可能です。
 まるで文字のフォントを買うように自分好みの音源を手に入れてオケを完成させます。
 昔でいうプリプロがもはや本ちゃんとなります。
 誰一人としてミュージシャンやエンジニアを必要としません。

 一人で作る場合ハードキャッシュも出ていきませんね。
 チェックもヘッドフォン、スマホスピーカーetc.

 大雑把に音楽にまつわる変化を書きました。
 さて、この流れの中で音楽業界、音楽ビジネスはどう変わっていったのでしょうか。

「音楽とビジネス」 連載開始!

 音楽エッセイの新着。

 「音楽とビジネス」をテーマに連載開始しました。
 この3,40年の間に音楽を取り巻く状況やお金になる仕組みは大きく様変わりしました。
 いいことも悪いことも含めその変化の流れを追うのと、純粋に音楽でお金を生み出すことが困難になった現状を考えます。

音楽とビジネス Vol.1

 約30年音楽ビジネスに関わっています。

メーカーのディレクター、プロデューサーから始まり、ライブの海外コーディネート、ライブ演出家のブレーン、作詞、音楽配信などなど。

 この間世の中はめまぐるしく変化していきました。

音楽の世界も例外ではありません。
一番大きい変化は楽曲の提供がノンパッケージになったことでしょう。

  私が大学生の頃音楽を聴く媒体は主にカセットとレコード(我ら通称黒板)でした。
そこへCDというメディアが現れ、カセットに変わるMDも登場します。
いわゆるデジタル化です。
 とはいうもののまだ音楽はメディア(固体)に収録され、それを再生するプレーヤーが必要でした。

映像も音楽には必要性が高まり、ビデオテープに変わるものとしてレーザーディスク、VHDというメディアが現れます。
レーザーディスクは大判のCDのような形態で非接触型でしたがまだアナログ。
 ちなみに我が家にはレーザーディスクプレーヤーも現役で存在します。
VHDはレコード版のように針で映像と音を読み取る方式でした。
 この二つのメディアは大きくパイオニア(LD)陣営とビクター(VHD)陣営に分かれ熾烈な市場抗争を繰り広げましたがレーザーディスクに軍配が上がりました。
(音、映像ともにその他のものもありますが代表的なものとして挙げています)

新御三家 Vol.9(最終)

 この新御三家がもちろんすごい人たちなんですが、その後も城ミチルやあいざき進也などなどアイドルと称する男の子が山のようにデビューしましたが、頑張って1曲は売れても、決して彼らを追い越すことはなく、四番手五番手から上に行くことはありませんでした。

 そうこうするうちにソロ・アイドル時代はフェイドアウトして行くのです。
 ただその時代の中でも、この3人はアイドルという言葉は別にしても、ソロ・アーティストとして長く芸能界で活躍してきました。
 
 郷ひろみも野口五郎も還暦をこえ流石にベスト10の世界からは遠ざかりましたが、二人とも現役です。
 郷ひろみはいまだにルックスとパフォーマンスは昔と見劣りしません。
 その秘訣を問われて「24時間郷ひろみでいること」と答えていました。こんなこと言ってみたかったなー。

 そういえば少し前に仕事先から使いませんか? と言われた「テイクアウトライブ」と言う音楽関連のアプリは野口五郎が発案者で特許も取得しているということで、そう言った才能もお持ちかと。
 しかも今の時代に合ったアプリです。なんといってもカックラキン! ですが。

 最後にご存知の通り西城秀樹は難病に倒れました。
 3人の中では一番ライブを重視しスタジアムでの野外ライブを数多く行ったりアジアにも進出して大人気でした。
 晩年のステージ上の車椅子でYMCAを歌う姿は心の奥底に響きました。合掌。

新御三家 Vol.8

 さて郷ひろみ。

 なんといってもデビュー曲の「男の子女の子」
 これまた女の子の「僕たち男の子♩」「GO! GO!」なのですが、西城秀樹のコールとはまた別の次元で熱狂というよりはリズムにノル感じ。
 AメロからA’サビの進行がスムーズでおしゃれな曲だから女子のコールもメロディーにノッた感じに聞こえたのでしょうね。

 続いて「小さな体験」
 郷ひろみに提供した筒美京平さんの曲の中でも好きな曲です。
 曲の構成が見事です。
 編曲も素晴らしい。
 哀愁も情熱も同時に感じられて大好きな曲です。

 そして迷った末にやっぱり「よろしく哀愁」。
 この曲は「静かなる巨人」とでもいうか、歌詞・曲・編曲ともに無駄なものが全くありません。
 ノリノリのアップテンポではないのですが、大いに盛り上がる、まさに名曲です。

 樹木希林さんとのデュオ曲も面白かったし、外国曲カバーのチョイスにも優れていましたね。